―アンティゴノス朝マケドニア王国のコイン―

アンティゴノス朝マケドニア王国といっても、最初からマケドニアを領有していたわけではありませんでした。 アンティゴノスはアレクサンドロス大王の東方遠征時に小アジアのフリュギアの太主に任命され、これが出世の始まりでした。大王の死後マケドニアの摂政ペルディッカスの勢力が脅威となると、ペルディッカスに不満をもつ他の武将らとアンティパトロスの陣営に入って対抗しました。ペルディッカスがエジプトで暗殺されると、アジアにおけるマケドニア軍の最高司令官に任じられます。 さらに息子デメトリオス・ポリオルケテスと共に戦い、小アジア全土とエウフラテス川以西のシリアを手中にしました。 
309B.C.にカッサンドロスにより大王の遺児アレクサンドロス4世とその母ロクサネが殺害されると、ギリシャ本土に勢力を伸ばすため息子を派遣し、アテネを勢力下におさめカッサンドロスに対抗しました。

301B.C.には他の大王の後継者に先駆け、息子共々王を宣言しました。こうしたアンティゴノスの勢力拡大に脅威を抱いたセレウコスとリュシマコスの連合軍にイプソスの戦いで敗れ、小アジアとシリアの領土は彼等に配分され、ギリシャの一部にデメトリオス・ポリオルケテスの勢力が辛うじて残るだけとなってしまいました。 しかし孫のアンティゴノス・ゴナタスの時代に、トラキアのリュシマコスがセレウコスとの戦いで敗死しマケドニアの王位争いが起ると、この争いに加わり277B.C.ついにマケドニアの王位に就き、ここにアンティゴノス朝マケドニアは確立されたのでした。


アンティゴノス1世 モノフタルモス 301―294B.C.

もともとマケドニアの貴族でアレクサンドロス大王の東方遠征に従軍し、小アジアのフリュギアの太主に任命されました。 大王の死後は他の武将達と覇権を争いますが、イプソスの戦いで戦死しました。 初代アンティゴノスはモノフタルモスとあだなされていましたが、これは隻眼(せきがん)の意味で日本でいうと独眼龍政宗のような感じのあだなでしょうか。
アンティゴノス1世はおそらくアレクサンドロスタイプのコインを発行していたと思われます(アンティゴノス銘は入っていないので特定は難しい)なお彼自身の肖像タイプコインはありません。

デメトリオス1世 ポリオルケテス 294―288B.C.

デメトリオス1世は軍事に長けた指揮官で、父のアンティゴノスと共同でディアドコイ戦争を戦いました。 ロドス攻撃時(不成功に終わるが)に最新の攻城器を使いポリオルケテス(攻城者)とあだ名されました。 イプソスの戦いに敗れた後も各地を転戦しましたが、不運にも戦中に病をえて敢え無くセレウコスに捕らえられ283B.C.捕虜になったまま彼の地で没しました。
デメトリオス1世も当初はアレクサンドロスタイプのコイン(アレクサンドロス銘)を発行したものと思われます。金貨はデメトリオス銘のものを発行しています。後に自身の肖像コインを発行しました。




肖像タイプと異なるこれらのコインは、何れかの海戦に勝利したことの記念に発行された物ではないでしょうか。(表面:船上のニケは海戦の勝利を、裏面:彼の得意とする海戦の裏付けとなる海神ポセイドンを表すと思われます) ガレー船のへさきに立つニケ像のデザインは ルーブル美術館のサモトラケのニケ※1 を彷佛とさせます。サモトラケのニケ像はロドスが191B.C.頃シリアとの海戦の勝利に感謝して奉納したとの説がありますが、この説が正しいとすればサモトラケのニケに前駆するニケ像が存在していたことが考えられます。
(※1:コレクション→古代ギリシャ‥→主要作品→ヘレニズム様式の美術→サモトラケのニケ)



アンティゴノス2世 ゴナタス 277―239B.C.

父デメトリオス1世の下で軍司令官として腕を振るっていましたが、父の死により王の称号を継承しました。 マケドニア王家に影響力のあったトラキアのリュシマコスが戦死しマケドニア王家にお家騒動が起ると、この争いに加わり277B.C.ついにマケドニアの王位に就き、アンティゴノス朝マケドニアを創設しました。その後もギリシャに勢力範囲を広げ、マケドニア王家を揺るぎないものとしました。
アンティゴノス・ゴナタスのテトラドラクマ銀貨の表面のパンの肖像はゴナタス自身を表しているとの説もありますが不明です。


デメトリオス2世 239―229B.C.

40年近い父の在位中、デメトリオス2世はかなりの期間共同統治者だったと想像されています。彼もマケドニアでの戦で戦死しています。
デメトリオス2世銘のコインは知られていません。あるいは共同統治者の父アンティゴノス・ゴナタスの貨幣を継承し作り続けたのかもしれません。


アンティゴノス3世 ドソン 229―221B.C.

デメトリオス2世の死後その未亡人と結婚し、幼かった先王の子(後のフィリッポス5世)の摂政となりました。そして先王の死後弱体化していたギリシャでの勢力範囲を回復させました。
表面のポセイドン像にアンティゴノス・ドソン自身を擬しているかどうかは不明です。アンティゴノス・ドソンのコインは、少ないようです。


フィリッポス5世 221―179B.C.

フィリッポス5世は8才の時父が戦死し、従兄弟のアンティゴノス・ドソンの養子となり薫陶を受けました。また青年期を戦場で過ごし経験を積み成長しました。このころ勢力を伸ばしていたローマと軍事衝突することが多くなり第1次/2次マケドニア戦争に発展しました。第1次マケドニア戦争はマケドニアに優位な条件で終結しましたが、第2次マケドニア戦争ではフラミニヌス将軍に敗れ息子のデメトリオスが人質としてローマに送られてしまいました。しかし表向きはローマに協力する形をとりながらも、裏ではなお敵対的な行動をとり続けました。さらにはローマで人質生活をおくり、ローマ寄りの考えを持つ息子デメトリオスを殺害し、自分の政策を支持したもう1人の息子ペルセウスを後継者にしました。
フィリッポス5世ジドラクマ銀貨は普通に存在しますが、テトラドラクマ銀貨は希少です。また息子のペルセウスを勇者ペルセウスに擬したと思われる希少なテトラドラクマ銀貨があります。ペルセウスを後継者にしたことを知らしめるために発行したのかもしれません。


ペルセウス 179―168B.C.

ペルセウスはフィリッポス5世の政策を支持したことから反ローマ的と思われましたが、フィリッポスが病没し王位を継承すると、ローマとの同盟を更新し周辺の国々との関係も好転させました。温和な政策により周囲から歓迎されると、マケドニアの勢力拡大を懸念したペルガモンのエウメネス2世はローマに訴え、開戦の口実を与えてしまいました。ペルセウスは善戦しますが結局大敗しローマでの凱旋行進に引き出され、のちに獄死しました。




参考資料:古代ギリシャ人名事典 (原書房)、GREEK COINS AND THEIR VALUES(Seaby)
  
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