―セレウコス朝シリアの諸王の肖像コイン(1)―
アンティオコス1世 ソテル 280―261B.C.
アンティオコス1世は、王朝の創始者セレウコス1世の跡を継いで2代目の王となりましたが、セレウコス1世は自身の肖像を入れたコインは発行しなかったので(子のアンテイオコス1世が父の肖像を入れたコインを発行しているが非常に希少)実質セレウコス朝の肖像コインの初めといってよいでしょう。 アンテイオコス1世はアレクサンドロス大王の押し進めた東西融和の一環で現地人との婚姻で得た妻(バクトリア人)の影響か?その容貌はギリシャ人と異なった特徴のあるものとなっています。 また治世が長かったので容貌も若々しいものから壮年のものまで色々とバリエーションがあります。
アンティオコス2世 テオス 261―246B.C.
アンティオコス2世は、アンティオコス1世の長子ではありませんでしたが、長男のセレウコスが反逆の咎で処刑されてしまったので王位を継承しました。 彼は周辺国との領土戦争に明け暮れ、その生涯を終えました。
その在位期間は比較的長かったにもかかわらず彼の発行したコインは(父王であるアンティオコス1世の肖像を入れたものも含め)意外に少ないものです。
セレウコス2世 カリニコス 246―226B.C.
アンティオコス2世の長男。 プトレマイオスの兄妹で義母のラオディケが、自分の幼児を王位に就けようとするなか王位を継承しました。これを名目として進軍してきたエジプトのプトレマイオスと戦争状態となり、その難局に1人では対応が難しかったので弟のアンティオコス・ヒエラックスを共同統治者に指名し、エジプト軍に対応したのでこれを退けることに成功しました。 しかし共同統治者となったヒエラックスは領土の分割を要求し236B.C.頃には一時王国は分割されることとなりましたが、ヒエラックスは後にペルガモンとの戦いに敗れ、セレウコス朝は統一王国に復帰しました。
アンティオコス 通称ヒエラックス(鷹) 246―227B.C.
アンティオコス・ヒエラックスは、セレウコス朝の正統の王ではありません。兄のセレウコス2世とプトレマイオスのエジプト軍に対抗するため共同でこれに当たりましたが目的達成の後、領土を要求し正統の王家から小アジア地方を分割させ統治しました。
彼自身の肖像を刻んだコインはカタログ評価よりずっと少ないものです。
セレウコス3世 ケラウノス 226―223B.C.
父セレウコス2世の死にともなって王位に就きました。 父がアッタロスに奪われたペルガモンを奪いかえすため遠征に出かけましたが、逆にプトレマイオスの援軍をうけたアッタロスのため敗死し、短い在位を終えました。
在位期間が短かったので、残っているコインも多くありません。
アンティオコス3世 メガロウ 223―187B.C.
アンティオコス三世は兄のセレウコス3世の死後王位を継承しました。 周辺国との戦争の内、東方への遠征ではインドまで到達しマウリア朝から戦象や金を得、自らをアレクサンドロス大王になぞらえ、”メガロウ”(大王)を名乗りました。 ローマとのポエニ戦争に破れたカルタゴの将軍ハンニバルが逃れてきた(195B.C.)ことでローマとの友好関係がおかしくなる。 これが端緒となりローマとの戦に破れ中東地域を奪い取られ、さらに子供のアンティオコス(後の4世)をローマに人質として差し出さざるを得ませんでした。 このようなローマからの介入で王国は徐々に衰退に向かうことになります。 彼も治世が長かったので若々しいものから壮年のものまで色々のバリエーションがあります。
セレウコス4世 フィロパトロー 187―175B.C.
セレウコス4世はアンティオコス3世の死後、父の後を継いで王位に就きました。 そして彼はマケドニア王家と婚姻関係を結ぶなどのアンティオコス3世の失った王権の回復に努めました。 しかしローマはこれを快く思わず、人質となっていた弟のアンティオコス(後の4世)の代わりに、セレウコス4世の子供のデメトリオス(後の1世)を差し出させました。 彼の最後は大臣のヘリオドロスによる裏切りによる謀殺であった。
アンティオコス4世 エピファーネス 175―164B.C.
デメトリオスとの人質交換でローマからの帰途、兄のセレウコス4世の死に合い、ペルガモンのエウメネス2世の後押しで王位に就きました。 彼の政策は表面上はローマに従い、裏では周辺国との同盟で国力の回復に努めました。 第6次シリア戦争でエジプトに侵攻しアレクサンドリアを占拠しますが、ローマから撤退を命ぜられ退去せざるをえませんでした。
アンティオコス5世 エウパトロー 164―162B.C.
アンティオコス5世は、アンティオコス4世の子供で父の後を継いで9歳の若さで王位をを継承しました。 しかし人質になっていたローマから逃れた従兄デメトリオス(1世)の挑戦を受け不幸にも僅か2年余りの在位の後、殺害されてしまいました。
在位年数の少なさに比べれば、アンティオコス5世コインの存在数は普通です。
参考資料:古代ギリシャ人名事典 (原書房)
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