―セレウコス朝シリアの諸王の肖像コイン(2)―
デメトリオス1世 ソテル 162―150B.C.
デメトリオスはセレウコス4世の長兄でしたがローマの強要で人質に取られました。 しかしアンテイオコス4世が死に、その幼い子が宰相に担がれアンティオコス5世として即位すると、ローマを脱出しアンティオコス5世を殺害し、デメトリオス1世として即位しました。 そして2年後にはローマから正式な王として追認されました。 またカッパドキアの王に彼の妹(マケドニアのペルセウス王の未亡人)との政略結婚を拒否されると、カッパドキアの王位僭称者を支持し対抗姿勢を取りました。これに対しカッパドキアの盟友ペルガモン王国のアッタロス2世は、逆にセレウコス朝の王位僭称者アレクサンドロス(バラス)を支持し対抗しました。 デメトリオス1世は国内基盤が弱かったので自分の子供のデメトリオス(2世)をローマに人質として差し出し、助力を得ようとしましたが失敗しました。 結局デメトリオス1世は、アレクサンドロス(バラス)との戦いの中で死にました。
デメトリオス1世コインの存在数は、特別なタイプを別にして概ね多いです。
アレクサンドロス1世 テオパトロー・エウエルゲテス 通称バラス 150―145B.C.
デメトリオス1世がカッパドキアの王位僭称者を支持したのに対し、カッパドキアの盟友ペルガモン王国のアッタロス2世は、アレクサンドロス・バラス(アンティオコス4世の子として王位を主張)を支持し対抗しました。 こうして後ろ楯を得たアレクサンドロス・バラスは、周辺国(ペルガモン、カッパドキア、エジプトユダヤ)やローマと軍事協定を結びデメトリオス1世を撃ち破りアレクサンドロス1世として即位しました。 しかし147B.C.にデメトリオス1世の子デメトリオス(後の2世)がローマから帰還してバラスに対抗するようになりました。 さらにバラスがコイレ・シリア(レバノン/イスラエル辺)を得ようと、プトレマイオスの殺害を企てると怒ったプトレマイオスは、デメトリオス(2世)を支持するようになりました。 バラスは彼等との戦いで、プトレマイオス共々陣没してしまいました。
デメトリオス2世 ニカトール(第1治世期)145―139B.C.
デメトリオスは、アレクサンドロス1世バラスがプトレマイオスとの戦いで戦死すると、デメトリオス2世として王位に就きました。 しかし国民からは人気がなく、ユダヤ人の騒乱で不人気はなおさら増大しました。 この機に王位僭称者ディオドトス・トリュフォンが現れ144B.C.に西部地域を手放さざるを得ませんでした。 さらに東方のパルティアに遠征した時、捕虜となってしまい在位は中断しました(第1治世の終り)。
第1治世期の肖像は若々しい青年像で表わされていますが、捕虜になる直前と思われる頃に髭を生やし始め、短い髭のタイプを発行しています。
短髭タイプは非常に稀少です。
アンティオコス6世 ディオニソス 145―142B.C.
シリアの軍司令官ディオドトスは、ユダヤ人の騒乱でデメトリオス2世の不人気が増大すると、権力掌握の好機ととらえバラスの子供をアンティオコス6世であると宣言しアンティオケイアに進軍するとデメトリオス2世は逃亡せざるをえませんでした。 アンティオコス6世のコインにはハイレリーフタイプはないようで、ほとんどが浅い彫になっています。
アンティオコス6世コインは、希少ではありませんが少ない方です。
ディオドトス・トリュフォン 142―137B.C.
ディオドトスはデメトリオス2世を東方に追いやると、今度は傀儡のアンティオコス6世を退位させ(後に殺害)、自らをトリュフォン(崇高な者)として王国の西部を支配しました。東方に追いやったデメトリオス2世が都合よくパルティアの捕虜となりましたが、デメトリオス2世の弟のアンティオコス(7世)が武装蜂起すると、即位直前だったディオドトスは難無く撃ち破られ自殺せざるをえませんでした。
ディオドトス・トリュフォンのコインは、かなり希少です。
アンティオス7世 通称シデテス(シデの) 139―129B.C.
アンティオコス7世はデメトリオス1世の第2子(デメトリオス2世の弟)で、シデに住んでいたので通称シデテスと呼ばれていました。 兄のデメトリオス2世がパルティアの捕虜となったので、兄に代わり即位直前だった王位僭称者ディオドトスを武装蜂起で撃ち破り王位に就きました。 さらに自らの地位を確固たるものにするためパルティアに対抗しましたが、逆にパルティアとの戦いで敗死させられてしまいました。
アンティオコス7世コインの存在数は、概ね多いです。
デメトリオス2世 ニカトール(第2治世期)129―125B.C.
デメトリオスはパルティアに捕われていましたが、パルティアがアンティオス7世と対峙すると、王位継承の争いが助長されることを期待して解放されました。 そんな時アンティオス7世がパルティアとの戦いで戦死すると、再び王位に就く幸運を得ました(第2治世)。しかし新たな王位僭称者アレクサンドロス・ザビナスが現れ、彼に王国を奪われ殺害されてしまいました。
アレクサンドロス2世 ザビナス 128―122B.C.
アレクサンドロス(2世)ザビナスは、デメトリオス2世と戦いの中にあったエジプトのプトレマイオス8世により擁立されました。そして128B.C.にデメトリオス2世を殺害し王を僭称しました。 ザビナスは自身はアレクサンダー1世の養子と自称していますが、アンティオコス7世の庶子であると考えられています。彼は後にプトレマイオスの後ろ楯を失いアンティオコス(8世)により排除されました。
クレオパトラ・テア 125―120B.C.(アンティオコス8世との共治期)
クレオパトラ・テアはエジプトのプトレマイオス6世とクレオパトラ2世の娘(つまりエジプトの王女)でした。そして彼女の生涯は他のヘレニズム諸王国の王女と同様、政略結婚のために翻弄された一生でした。まず最初はエジプトと敵対していたシリアに対抗するため、王位僭称者アレクサンドロス・バラスに嫁がされました。しかしエジプトとの同盟がバラスから離れシリアの正統であるデメトリオス(2世)に移ると、彼女はデメトリオス2世に再婚させられました。その後デメトリオスがパルティアに捕われると、今度はデメトリオスの弟のアンティオコス7世と再々婚し影響力を保持しようとしました。彼女の子供が成長すると今度はその息子を通して権力を得ようとしました。まず長男のセレウコス(5世)を擁立しますが母親の意向に沿わないと彼女により殺害されました。次に弟のアンティオコス(8世)を王位に就け王国を共治しましたが、彼も母の意向に背くと母は彼を毒殺しようとし、逆に毒殺されてしました。
クレオパトラ・テアの肖像コインは希少です。
(またバラスと共に刻されたものと単独の肖像の物も存在しますが、これらはカタログでしか目にできないでしょう)
セレウコス5世 95B.C.
セレウコス5世はデメトリオス2世の長子で、父のデメトリオスが殺害されると王位を要求しました。しかし彼が、母のクレオパトラ・テアの意向に逆らうと、彼女によって殺害されてしまいました。
セレウコス5世のコインは発行されていないようです。
アンティオコス8世 エピファネス 通称グリュポス(鷲鼻) 125―96B.C.
アンティオコス8世の通称グリュポスは、肖像からも分かる通り鷲鼻という意味です(しかし肖像だけを見る限り、伯父のアンティオコス7世とそっくりで裏面の銘文を確認しないと区別がつきませんが)。アンティオコス(8世)はデメトリオス2世の子供で、敵対していたエジプトのプトレマイオス8世が王を僭称していた ザビナスを支援しなくなったので排除することができ、王位に就くことができました。グリュポスは5人の男子を残しますが96B.C.に自らの宰相に暗殺されてしまいました。
アンティオコス8世コインの存在は、特別なタイプを別にすれば概ね多いです。
アンティオコス9世 キュジケノス(キジクスの) 113―95B.C.
アンティオコス(9世)は、アンティオコス7世の子供でキュジコスに居住していたのでキュジケノスと呼ばれた。 彼は異父兄のアンティオコス8世グリュポスに対し反乱を起こしますが沿岸部のみの領有にとどまりました。 またアンティオコス8世が自らの宰相に暗殺されると東方の領土を再度窺いますがセレウコス(6世)により殺害されてしまいました。
参考資料:古代ギリシャ人名事典 (原書房)、GREEK COINS AND THEIR VALUES(Seaby)
(C)2001 Studio ivy Co.,Ltd. 無断転用を禁止します。